どんな人をよしとするか、という価値観の問題のような気がする
今日の朝日新聞に、「韓国、いじめれば大学入試で「減点」に」という記事(デジタル版は有料)が掲載されています。
同記事の中で、いじめが原因で息子をなくした女性(彼女自身も中学教師)が、大学入試での減点も必要な対策だと認めつつ、「勉強さえできればいいという考え方が蔓延している」「(いじめ問題の根底には)行き過ぎた競争社会がある」という問題提起をしているのが印象的でした。
韓国の大学は、減点後のテスト結果が同じ学生が二人いる場合、すごく勉強ができるけれど、過去にいじめの加害者になった子と、元々テストの点数は低いけれど、いじめに加わったことのない子の内、どちらを選ぶのでしょうか。
ちょうど昨日の朝日新聞に「「仕事はできる」けれど」という記事(デジタル版は有料)があって、「いじめで大学入試減点」とどこか通じているように感じました。
後者の記事は、職場で能力が高いと評価されている人が、攻撃的だったり、他人の足を引っ張ったりすることがしばしばあるという前提を元に、「仕事ができる」というのはどういうことか、3人の論者が意見を交わしています。
この中で、仕事はできるけれど攻撃的な社員をあえて解雇し、会社の業績は一時的に落ちたものの、長期的には社内の雰囲気改善を選んで成功した経営者の方のお話があります。
彼の、「仕事はできるけど周囲を傷つける人が野放しになっているとしたら、100%経営者の責任です」という言葉は、「そう考えてくれる経営者もいるんだ!」と労働者として働く希望を与えられました。
学校にしろ、職場にしろ、地域のコミュニティーにしろ、「どんなに勉強/仕事ができても、お金や力があっても、こんな人はダメだ」という意思表示がなされていれば、そこで成功しようとする人は、自ずとその価値観に合わせる気がします。
もちろん「勉強/仕事さえできればOK」という学校や職場があっても、それはそこの価値観なので自由です。
それも、広い社会の中でどう評価されるか、という問題ではないでしょうか。
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