心の中にいる大切な人とものの存在
以前、朝日新聞のポッドキャストで、長野県で「ぼっち」と言われたと4人を殺害した事件(NHK記事)について、非常に興味深い問題提起がされていました。
それは、「犯人は孤独だったというけれど、家族と住んでいて、自分でビジネスもしていたのだから、そんなに孤立していなかったのでは?」というものです。
言われて、なるほど。
一人暮らしで、普段話す人もいないわたしの方が、その犯人に比べたらよっぽど孤立しています。
もちろん一人でいることに対する耐性や、寂しいと感じるレベルは人によって違うと思いますが、わたしのように一人で過ごす時間が長くても「自分は孤独だ」と思わない人間と、長野県の事件の犯人のように、家族と暮らして仕事上の仲間がいても「孤独だ」と感じる人の差は、案外重要なポイントではないでしょうか。
一般的に、秋葉原や京アニ、小田急線無差別殺傷・殺人事件を起こすような人は、社会とつながりがなく孤立した人間という図式で語られがちです。
しかし彼らにも友人がいて、時々証言者として登場します。
つまり、本当にひとりぼっちでなくても、誰かと同居していても、心は完全に孤立して、「もう世の中なんてどうでもいい!」となる人と、そうでない人がいるわけです。
そうなると、その違いは「その人の〝心の中に〟大切な誰かや何かがあるか否か」ではないでしょうか。
わたしは普段から一人で過ごす時間が多いくせに、「もっと一人で山を長く歩きたい」「誰もいないところできれいな景色を見たい」と強く思っているほどです。
もちろん「世の中なんてどうにでもなれ!」などと思ったことはありませんし(むしろその逆)、自〇したいと思ったこともありません。
おそらくその理由は、「たとえ誰も見ていなくても、自分は自分の行動を見ている」という基準で生きる中、いつも心の中に尊敬する家族や友人、著名人の存在があって、「もっとしっかりせなイカン!」と励まされ、支えられているからだと思います。
でも無差別殺傷・殺人事件を起こした人たちは、たとえ誰かが物理的に近くにいても、心の中で自分を支えてくれる存在がなかったということかもしれない。
心の中に大切な人やものがあるか否か。
その違いは、どうやって生まれるのでしょう??
その答えは見当もつきませんが、心の中の存在が、世の中や、生きることを放棄するかどうかの鍵を握っているような気がしてなりません。
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