『ごんぎつね』
恥ずかしながら、あるポッドキャストをきっかけに、〝ごんぎつね問題〟なるものの存在を初めて知りました。
〝ごんぎつね問題〟とは、新美南吉の子ども向け短編小説『ごんぎつね』の最後で主人公のごんは死んだと解釈する人と、死んでいないと解釈する人の論争らしいです。
わたしはその話を聞いて、「たしかに自分はごんが死んだと思っていたけど、死んだとは書いていないから、死んでないと思う人がいても不思議ではないな」と思いました。
(『ごんぎつね』ってどんな話だっけ?という方は、青空文庫で無料で読めます)
出典:偕成社
なぜわたしがごんは死んだと思ったのかと言うと、「ひとりぼっちの子狐が、さみしさ半分でいたずらをし、兵十の母親の最後のしあわせを奪ったのかもしれないと反省した。 そして自分の罪を償おうとしたのだが兵十とのすれ違いは続き、兵十がごんの気持ちに気づいたときは遅かった」とする方が、物語のせつなさが強調されて、読者により強い印象を残すと思ったからです。
今回改めて『ごんぎつね』を読んでみると、「一人ひとりぼっちの小狐」「二、三日雨がふりつづいた」「しゃがんでいました」「ほっとして穴からはい出ました」「もずの声」(もずは獲物を串刺しにする鳥でもある)「すすきの穂」「黄いろくにごった水に横だおし」などなど、冒頭からさみしさを連想させるような言葉が連続して出てきます。
そこで築かれた世界観を下敷きに、「ぼろぼろの黒いきもの」を着た兵十が「顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子ほくろみたいにへばりつい」た状態でもまったく気にかけず、必死に魚をとる様子などから、彼の置かれた生活の厳しさが鮮明に描かれています。
そのさみしくて、どこかやるせない世界で、ごんは兵十を思い、態度や行動を徐々に改めていったのに、兵十がごんの思いやりに気づいたときは、自分がごんを手にかけたあとだった。。。という方が、「ばたりと、とり落し」た火縄銃から出る「青い煙」が兵十の後悔と重なって強調されるのではないか、と。
しかし、もちろんごんは撃たれたけれど死んでおらず、兵十に治療されて復活し、ふたりは仲良く暮らしたという解釈も可能です。
ただ個人的には、自分の過ちに気づいたごんが行動を改めて死に、今度は兵十が取り返しのつかない過ちを侵し、それに気づくという終わり方の方が、話の世界観に一貫性があるし、深い印象を残す気がします。
でも、「死んだと書かれていない以上、ごんは死んでいない!」という主張も完全に否定できません。
『ごんぎつね』には他にもおもしろい論争があり、お葬式で火にかけられた鍋の中には死んだ兵十のお母さんが入っていると言う子どもが少なくないそうです(笑)。
でも、「お葬式は近所の人が集まってする」「そのときにみんなに振る舞うための食事が作られる」なんてことは、知らない子がいても不思議ではないですよね。
それを「常識不足」「読解力不足」と言ったらかわいそうです。
〝ごんぎつね問題〟を機に、久々に『ごんぎつね』を読んで、物語の世界観は細かい描写の数々で紡がれることを改めて認識しました。
今さらですが、新美南吉はすごい作家ですね。
しかも『ごんぎつね』は、彼が18歳のときに書いた作品だそうです。(参考:「新美南吉『ごんぎつね』の研究」)
〝おそらく〟ごんは死んだと思うし、お葬式の鍋では食事が作られていたのだと思いますが、〝ごんぎつね問題〟は、「死んだと書いていない以上、ごんは死んでいない!」「食べ物が入っていたと書いていない以上、鍋の中には亡くなったお母さんが入っていたんだ!」と言う人の存在も意識してコミュニケーションをとる必要があるのだと気づく、よいきっかけになりました。

想像力、余韻を残すラストでしょうか。
返信削除私もゴンは亡くなったと思ってました。死を持って償うとか自ら火に飛び込んで捧げるとかそんな物語もあるので、そう思ってしまってるのかも。
兵十もゴンも幸せに暮らしましたと想像できるような思考は現実逃避かポジティブか。
どんな答えでもいいというのが作者の思いだったら面白いです。
今度、うちに来た時ごんぎつねの里を案内するよ!新美南吉記念館が半田にあります!
ぜひぜひ!(喜)
削除思えば昔の話って動物の出てくるものが多い気がする。
それだけ動物が身近な存在だったのかな?